レイモンド・ムーディーの『臨死共有体験』

0

     

     

    *以下の記事、自分では3・4年くらい前に書いたとばっかり思い込んでいたのですが、UPされてませんでした。( ´・ω・)・・・そんなわけで、今更感がありますが掲載。

     

     

     

    *****

     

     

     

     

     


    皆さん、臨死共有体験って、ご存知ですか? 

     

     

     

     

    りんしきょーゆーたいけん!(-@∀@)

     



    あまり一般的でない言葉なので、大きく言ってみました。読んで字のごとく、他人の臨死共有する体験なのだそうです。共有といっても一緒にポックリ死んでしまうわけじゃありません。例えば、家族の死を看取った人などが、死に逝くその本人と一緒にあの世の入り口まで逝って、自分だけ戻ってくるというような体験です。

     

     

     

    この話、臨死体験研究の先駆的存在、レイモンド・ムーディー博士が出した本で知りました。ヒカルランドから出版された表紙にはこんな説明文が書かれています。
     

     


    「死にゆく者とそこに寄り添う者が臨死体験を共に分かち合うー死後生命の存在をより確実にする驚異の事例報告/世界的ベストセラー『かいまみた死後の世界』のその先」



    亡くなった人間の傍に立ち会った自分までもが一緒に臨死体験をしてしまったという証言を、多くの人々から聞いていたムーディ博士は、「これこそが、臨死体験が脳内現象ではないことを示しているのだ!」と息巻いたわけですよ。

     

     


    この体験の中で特に面白いのは、臨死体験で起きる人生回顧を、なぜか看取った人間までもが共に分かち合って、死を迎えた本人しか知らないはずの事実を知ってしまうという事例があるところ。旦那の昔の彼女たちを見てしまった〜・・みたいな。私が看取られる側だったら絶対イヤですが、まあだからこそ名づけられた「臨死共有体験」というわけです。

     

     

     

    (これ、死に逝く主役の本人はそのままご臨終してしまうので、実際には「死の共有体験」なんですよ。原文は、shared death experiences なので、この言葉はどうなんだろうと思ったのですが、やっぱり世に送り出す言葉として「臨死共有体験」が妥当なのかなあ)

     

     

     

    *****



    で・・・思うにこの体験って、その根拠となるものが証言・体験談しかないので、結局は、「幽霊見ました」とか「神秘体験しました」とかのオカルト話とそう大差ない扱いを受けると思うんですよね。結局、こんなのは体験者の話を信じるか信じないかの問題なので。

     

     

    ただ、臨死共有体験は、死者の看護に携わった者が体験するなどの医療現場からの報告があったために、ムーディ博士の知るところとなったわけで、こんな奇妙な体験の存在が世の中には知られていない段階でありながら、あちこちからムーディ博士に同様の体験を語る人が集まったというのは、皆が偶発的に自作のホラ話を語ったとはどうにも考えにくい。

     

     

     

    証言の存在じたいが捏造という可能性もありますが、ムーディ博士以外の研究者も臨死共有体験の証言を収集しているそうなのです。ココ大事。

     

     

     

    っていうか、もはや今ではムーディ博士自身が、臨死体験と臨死共有体験の体験者ですからね。きっとあれですよ、心臓の専門医が心臓を患う法則みたいなやつが発動したんじゃないかと。さすがムーディさん、長年の臨死体験研究で死への恐怖心がすっかり消えてしまい、自殺未遂しちゃっただけのことはある。

     

     

     

    というわけで、臨死共有体験がどのようなものなのか、わかりやすいケースを抜粋してみます。

     

     

     

     

     

    -----------------『永遠の別世界をかいま見る、臨死共有体験』より

     

     

     

     

    私は医科大学での学びを終えたのち、世界各地の医師会などで、臨死共有体験の話をするようになった。

    すると医学の最前線で活躍している人々から、同様の話をしばしば聞くことができた。

    そうやって私は次第に、こうした経験は、思っていた以上に方々で頻繁に起きていることなのだ、と感じるようになった。

     

    臨死共有体験は、通常の臨死体験と共通の要素を持っている。

    しかしそれは、私がそれまで聞いたことのないような多くの特徴を含んでいた。

     

    たとえば臨死共有体験をした者は、「部屋の形が変わったんです」、

    あるいは「神秘的な光が部屋に満ちました」ということを言う。

    どちらも通常の臨死体験では聞かなかった話だ。

    しかし、臨死共有体験によく現れるそれらの要素の中でも、とくに驚かされたのが、

    「愛する者と共に人生を回顧する場があった」という証言だった。

     

    ある女性に、すでに成人した息子がいた。

    彼女の名をスーザンと呼ぶことにしよう(実名を公表しないとの約束なので、仮名になる)。

    その息子はガンのために亡くなった。

    その悲しいが目を見張るような話を、あるときスーザンは私に語ってくれた。

    「目を見張る」と述べたのは、彼女が息子の死に際に体験した事柄が尋常ではなかったからである。

     

    息子が死んだとき、スーザンは息子と共に「雲の中で泣いていた」。

    雲の中に一種の映像となって映し出された息子の人生の様々な場面を、彼女は共に見て、回顧したからだという。

     

    その人生回顧の幾つかの場面は、彼女の記憶にもあった。

    たとえば息子の幼少の頃や、10代のときのこと。

    しかし、彼女の記憶に全くないような場面も多々あった。

    「息子のプライベートな歳月」と呼べる期間のことなどである。

    その期間のいろいろな場面を、彼女が勝手に想像で作り上げられるものでもないだろう。

    彼女は「それらを見て少なくとも当惑はしなかったわ」と言った。

     

    この女性が、息子の人生の回顧を通して集めた情報は、きわめて具体的だった。

    というのは、体験後に彼女は、あの人生回顧で映し出された息子の友人を認識できたり、

    息子に関係ある場所を訪ねることさえできたからである。

     

    私は、彼女がこのように息子と死の体験を共有したということに、非常な衝撃を受けた。

    しかも、彼女はそれ以前には知らなかった情報を、その体験を通して知った。

    その情報はのちにチェックされて、正しいことが証明されている。

    彼女が回顧の映像の中に見た情報は、もともと彼女自身の記憶にはないものだった。

     

     

    ***

     

     

    同様のケースをここに紹介しよう。これはダナが語ったものである。
    彼女は夫の生涯の回顧を、夫と共に分かち合った。
    その回顧は鮮やかなもので、彼女自身が以前は知らなかった心像や出来事を含んでいた。

     

    以下は彼女自身の言葉である。

    「私の夫ジョニーの55歳の誕生日に、夫は、肺がんを病んでおり余命6ヶ月と宣告されました。
    私は、野球のバットで頭をなぐられたかのようなショックを受けました。

    正直いうと、そのとき医者が何と言ったのか、はっきり思い出せないほどです。

    時間が経ってようやく医者が何を言ったのか理解しました。

     

    次の日、私は仕事をやめました。

    ジョニーと最期の時間を共に過ごす決心をしたからです。
    以来、二人が数時間と離れていることはありませんでした。

    私は病院ですべての時を彼のベッドの横で過ごしました。
    彼の死の瞬間も、彼を抱きしめていました。

     

    ジョニーが亡くなったとき、彼は私の体の中をすり抜けていきました。
    まるで電気にしびれたような感覚でした。
    電気ソケットに指を入れてビビッと来る、それよりもずっと優しいものですが。

    ともかく、それが起きたとき、私たちの生命が周囲に広がったのでしょうか。
    あたかも病室とその中のすべてを一瞬におおうような感じで、光が周囲に満ちたのです。

    明るく白い光でした。

    私にもジョニーにも、そこにキリストがおられることがわかりました。


    私たちが人生でしてきたこと、それはすべて光の中に映し出されました。
    その中でジョニーに関することも見ました。

    私との結婚前にジョニーがしたことも。


    そう言うと「あなたが見たくないものや、彼の私生活のものもあったのでは?」
    という質問を受けるかもしれません。はい、ありました。
    でも、特にいやな感じは持ちませんでした。

    ジョニーが結婚前の若い頃に一緒にいた女性たちの顔も見ました。
    のちに、私は彼の高校の卒業アルバムを見て、彼女たちの名前を確認しました。

    彼の死に際に見たあの人生回顧の記憶にしたがって確認できたのです。

     

    人生回顧の中には、私自身が、死んだばかりのジョニーの遺体を抱きしめている光景も現れました。

    悪い気持ちはしませんでした。

    なぜなら、私のとなりではジョニーが霊の姿で生き生きと、共に人生回顧の映像を見ていたからです。

     

    ところで、その人生回顧は何というか、巻きスカートにも似ていました。

    他に表現が思いつかないのですが、あたかも巻きスカートのように、ジョニーと私が共に、
    あるいは別々に経験してきた事柄が、折り重なるように映し出されるのです。

    言葉で言うのは難しいです。
    でも、すべてのことが夫の死の床のまさにその場で、瞬間映像のようになって次々に映し出されました。

     

    人生回顧の中で、私がまだ10代のときに流産して失った私たちの子どもも現れました。

    彼女は私たちを抱きしめてくれました。

    それは私たちが地上界で見るような人の姿ではなく、むしろ人に似た姿といいましょうか、
    かわいい幼児のような存在として、そこにいてくれたのです。

    それは、私たちがその子の流産を通して味わった苦悩のすべてが、もはや報われ、解決されたことを意味していました。

     

    私は聖書の御言葉を思い起こしました。

    「人のすべての考えにまさる神の平安」。

    まさにそれこそが、彼女を通して私たちに与えられたものでした。


    巻きスカートのように映し出される人生回顧の中でおかしかったことの一つは、
    私たちが中学一年生のときアトランタにあるジョージア州議会議事堂に行き、

    そこにあるジオラマを見学したときの光景でした。

    ジオラマは巻きスカートのように広がっています。

    それを見学する私たちを、巻きスカートのように映し出される人生回顧の中に見ていたわけで、
    私も私の横にいたジョニーも、思わず笑ってしまいました。

     

    人生回顧の中で、一つ奇妙だったことは、ときおりパネル、あるいは区分け版のようなものがあって、

    私たちにはその向こうが見えないようになっていたことです。

    それをどう表現したらいいのかわかりませんが、ともかく、私たち二人が向こう側を見ることはできませんでした。

    そこに何があったのかはわかりません。

    しかしすべてはキリストのお考えによるものと理解しています。

    いつの日にか、私たちもそのパネルの向こう側を見ることができるようになる、とキリストは仰いました。」

     

     

     

    -----------------

     

     

     

     

    うーん、最後の体験の「そこにはキリストがおられました」みたいなやつ。

     

     

    こういうのって、キリストコスプレしたヘルパーの場合と、本物のキリスト的存在の場合と、もしかして色んなパターンがあるんじゃないか??とか思ったります。

     

     

    もしくは、その人には「キリスト」と知覚されるけども、別の人にはスサノオと知覚される・・・というような信念体系の問題なのか、よくわかりません。

     

     

    それにしても、この本、数ある臨死体験関連本の中では、久々に面白い本でした。

     

     

     

     

    人気ブログランキングへ

     

     

     

     

     

     

     



    お薦め記事

    最新の記事

    カテゴリー

    月別アーカイブ

    検索

    その他

    モバイル

    qrcode
    無料ブログ作成サービス JUGEM